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    ザクセン州の木彫りミニチュア工芸
はじめに

くるみ割り人形やクリスマス用の天使の人形、窓辺を飾るろうそくの灯に映し出される影絵。ロマンチックなクリスマスを演出するドイツの工芸品の本場はザクセン州の南部、ボヘミヤ山脈につらなるエルツ山地(エルツゲビルゲ)である。ここで作られる木製の人形や木彫りのミニチュア、装飾品は一般に「エルツ山地木製工芸品(Erzgebirgische Kunsthandwerk)」と呼ばれる。この名称は、しかし、これらの製品が単にこのエルツ山地で作られていることに由来するだけではない。エルツ山地の「エルツ」は「鉱石」を意味するが、実はこの鉱石とも深いかかわりがある。
クリスマスを彩るエルツ地方の木彫り人形

<クリスマスを彩る木彫り人形>
各地の鉱山労働者がそれぞれ独自の制服を持っている<左:正装した鉱山労働者>


金属鉱山の発展と衰退

現在「エルツ山地」と呼ばれるこの地域は長い間、暗く、深い森に覆われ、人が村落をつくって住み始めるようになったのは11世紀になってからであった。しかも、1168年になってクリスティアンドルフと呼ばれる村で銀が発見されたのをきっかけとして、この地域は急速に発展していくことになった。時のマイセン辺境伯オットーはクリスティアンドルフをフライベルク(Freiberg=自由な鉱山)と命名し、この町には各地から山師たちが競って集まり、活況を呈するようになった。そのため、ドイツで最初の「鉱山法」が制定されることにもなったほどである。その発展ぶりは、13世紀の半ば、人口が5,000程度に過ぎなかったこの町にすでに立派な教会が5つもできていたことからもわかる。13-14世紀に入ると周辺地域でも鉛や亜鉛、銅も発見され、西方のツビッカウでは石炭も採掘されるようになる。さらに1471年にはシュネーベルク (Schneeberg)でも銀の鉱脈が発見され、15-16世紀にかけてアナベルク(Annaberg)、ブーフホルツ(Buchholz)、マリエンベルク(Marienberg)といった鉱山町が次々に生まれ、繁栄した。
しかし、金属の加工のためには木炭が必要であり、そのために周囲の森の木が次々に伐採され、いたるところに炭焼き小屋が建てられた。そして、ところ狭しとばかりに並んだ炭焼き小屋からはもうもうと煙があがり、早くも煙公害の問題さえ生じるようになる。さまざまな種類の木からなる深い森で覆われていたこの地域で森が少なくなっていき、残った森も再生の早いトウヒ(=Fichte、針葉樹)ばかりの森となったのはこうした事情による。
一方、鉱山業が発展するに伴って力のある企業家が繁栄していったが、それとは反対に鉱山労働者の労働条件は厳しく、生活は圧迫されるようになっていった。さらには、16世紀になると南米から銀その他の金属が安く入るようになったため、この地域の鉱山業は経営が苦しくなり、鉱脈も尽きるようになった。最も厳しい状態に置かれたのは労働者で、生活の糧を失い、ますます苦しい生活を余儀なくされていった。

祭りがモチーフのエルツ地方の木彫り人形
      <さまざまな機会に楽しまれる>
山中の生活の糧

そうした暗い山中の生活の中で労働者の家族や、さらには、労働者自身が生活を維持するために始めたのがボビンレースや時計、そして、木彫り人形をつくって、売ることであった。鉱山町のザイフェンで木彫り工芸品作りが始まったのは17世紀である。木はまだ豊富にあったし、鉱山労働者も坑内の補強や運搬用の容器やトロッコ、はしごなどを造ったり、使ったりしており、木の扱いには慣れている。旋盤を回すための水力もある。生活の中から生まれ、育てた人々の故郷とは切っても切れないこの地方の家内工芸がはじまり、何世代にもわたって技術が受け継がれるようになった。なお、ドイツ語の”Seife”は「石鹸」を意味するが、Seiffenの村はその昔、掘り出してきた亜鉛鉱石を洗った場所であった。

苦しい生活の中で、布を加工してふち飾りをつける仕事が主として男の仕事となった時期もあったといわれる。しかし、これらの製品が世に認められ、この地域を代表する製品として発展するのは18世紀になってからである。その後はこれらの工芸を下地にして、ザクセンを代表するプラウエン(Plauen)地域のレース、オルバンハウ(Olbernhau)の家具、フォークトラント(Vogtland)のバイオリンやツィターなどの楽器、グラスヒュッテ(Glashuette)の超精密高級腕時計、ザイフェン(Seiffen)を中心とする木彫工芸品などの産業が急速に発展していった。

 戦前からある代表的なモチーフのひとつ。
                      <鹿と遊ぶ少女>
 台の直径は3cmほど。精巧な旋盤を使ってまたたくまに作り上げられる。
     <「いばら姫」の1シーンを描いたミニチュア人形>


木彫りミニチュア工芸品

サイフェンを中心とする木彫りのミニチュア工芸品は20世紀はじめから各国にも輸出され、旧東独時代には外貨獲得のための輸出品としても重要な役割を果たした。また、国内では通貨の代わりに使われることさえあり、ゼンパーオペラの切符の手付金として使われたこともあるという。
材料には主としてトウヒ(Fichte)の幹が使用される。成型には基本的に旋盤が使われるが、方法は2通りである。ひとつは輪切りにした幹を旋盤で回転させながら切削工具をあてて、経験に基づく勘だけをたよりに削っていくもの。出来上がった輪投げの輪のようなものだけでは何の形かわからないが、切ると、断面が羊や馬などの形になっているというもので、適当な厚さに切っていけば同じものが一度にたくさんできる。もうひとつは、2-3cm角の棒状の木材を旋盤にセットし、工具で削って適当な形に整えるもので、人形であれば頭や胴体、脚、足などを別々に作り、丁寧に着色して組み立てる。
第2次大戦後はウラン鉱山

ところで、エルツ山地由来の鉱山や鉱石はその後どうなったか。シュネーベルクでは銀が発見された後、コバルトが発見され、陶磁器用の青い顔料としてデルフトのタイルやマイセンの磁器の紺色の顔料としてなくてはならないものになった。そして、第2次大戦後はソ連軍の主導の下にウランの採掘が大々的に行なわれるようになった。ウランを含むピッチブレンドはこの地域でも古くから知られていたが、鉱山労働者たちはそれが危険なものであることを知らず、防護服もつけないまま直接触れたり、坑内のほこりを吸ったりしために、塵肺や肺がん患者が続出した。ソ連は周辺地域一帯を特別地域に指定し、一般人の出入りを厳しく制限した。旧東ドイツ時代に採掘されたウランは22万トンにのぼったが、ソ連はこれを戦後賠償の一部として徴収し、戦後の世界において政治力の背景として大いに活用したのである.
ウランの鉱山は東西ドイツ統一後の1990年から91年にかけて閉鎖され、ボタ山も整理された。近くに深さ1,900mとヨーロッパでもっとも深い鉱山があったシュレーマの村は1998年に改めて保養地の指定を受け、湧き出るラドン泉で知られる。
環境悪化で技術革新へ
木彫り工芸の観点からは余談であるが、ウランなどの鉱山や周辺では地下水などの汚染が問題となるが、ドレスデンにあるポッセンドルフ研究センターではウラン採掘後のボタ山に生きる特定のバクテリアが表皮にウランを吸着させ、変化させることを発見した。環境に順応して生きる特異な生物であるが、同研究所では、このバクテリアを培養したうえ、特殊なセラミックに定着させることでウランをろ過するフィルターを作り、ウランが含まれる水の中からウランをほとんど100%取り去ることに成功している。同様な方法でその他の重金属についても除去する研究を行ないい、成果を挙げている。


見どころ

ザクセン州南部のエルツゲビルゲ地方はなだらかな丘陵が連なり、時には谷間に小さな村落がたたずみ、時には丘の上の教会を巡って町が息づくといったのどかな風景が続きます。木彫り人形を求めて車を走らせる機会があったら「銀街道」をたどってみるのはいかがでしょうか。
-- ドレスデン情報ファイル 2004.11.21 --